快晴の土曜日、井津建郎氏の写真作家活動50年を期した写真展をはしごしました。
まず、東麻布のPGIで新作展「もののあはれ」。8×10でとらえた能面のポートレートが中心で、作者は老境にいたって能の美を改めて発見したそうです。お面は見る角度や光の角度によって表現する感情が変化しますが、それを二次元のプリントに固定し、自分の表現としています。
8×10でアップにした能面はほとんど等倍の接写なので、その描写力も圧倒的です。
PGIのビルを出ると、東京タワーが間近に迫ってきます。
快晴の土曜日、井津建郎氏の写真作家活動50年を期した写真展をはしごしました。
まず、東麻布のPGIで新作展「もののあはれ」。8×10でとらえた能面のポートレートが中心で、作者は老境にいたって能の美を改めて発見したそうです。お面は見る角度や光の角度によって表現する感情が変化しますが、それを二次元のプリントに固定し、自分の表現としています。
8×10でアップにした能面はほとんど等倍の接写なので、その描写力も圧倒的です。
先日の春日広隆個展CUBAと同じ会場で、恒例のフォトグラフィック・アート・アジア展を拝見しました。ゆったりした会場で、メンバー10名の個性的な展示が楽しめます。今年は例年より白黒の作品が多いように感じました。
写真の題材、メディアなど各メンバーのこだわりが感じられるものばかりです。そのバリエーションもさることながら、それぞれが自分の表現を追及し、内容や技術を実験していくという態度は見習うべきだと感じました。
11月3日夕刻には展示が終わり、いよいよ明日からスタートとなります。パーティなどはできませんが、研究会のメインエベントなので、皆さん力が入っています。
「スナップ美学と日本写真史」というサブタイトルの分厚い本を一気に読みました。とてもスリリングで示唆に富んだ写真論です。いままで漠然と「スナップショット」というくくりで捉えていた写真たちも、それを成り立たせた社会の状況や価値観・ハードウエアの進化・そして何より撮影する側とされる側との関係など、多面的な分析がされています。
たとえば第4から5章では戦中戦後のプロやアマチュアの状況が考察されています。
何十年もの時を隔てて振り返ると「絶対非演出」という価値観が尊重されてきたのが不思議にも思えます。国策プロパガンダに協力したことへの反省から、土門たちが主唱した態度だということです。報道写真が「ヤラセ」を避けることは(表向きは)当然としても、アマチュアまでにも深く影響したことは興味深いことです。当時の「生活綴り方」との共通性を指摘する指摘も新鮮でした。そうだとすればこの価値観や美学は日本特有の現象なのでしょうか? 大多数のアマチュア写真家にとって都会(の貧しい部分)を撮ることが、大自然などより手近で簡単・キャンディッド写真のスリルを楽しめたという指摘も新鮮です。
本書のキーワードの一つでもある「窃視」が「盗撮」と言葉を変えてより日常化しているのは、その伝統なのでしょうか?
レッスンプロが、主としてカメラ雑誌を舞台にアマチュアを指導するという構図は、お茶や生け花などとそれほど変わらない趣味の世界の出来事だったのでしょう。
同時代のスターでもあった名取や木村が、戦争協力の経歴を棚に上げて平和を説いたり、カルティエ=ブレッソンと同列に扱われるようにしたことなど、思わず笑えるような指摘もあります。
本書の守備範囲は膨大で、とても全部は紹介しきれませんが、刊行時期がアサヒカメラや日本カメラという老舗写真雑誌の退場と同時期だったのは偶然とは思えません。
研究会では新たなゾーンシステム解説のパンフレットを編集していますが、その過程で気になることがありました。
そのひとつに「EV(Exposure Value)」について、単体露出計を使いマニュアル露出を行う研究会のなかでも認識に違いがあることに気づきました。
なかでも「EVはISO感度100で撮影するときの絞りとシャッターを表す数値」だという考えがありました。EVは絞りとシャッターの組み合わせを表すことに間違いはないのですが、ISO100に限定しているわけではありません。なぜこのようになったのでしょうか?
ひとつの推測として、ゾーンシステムで必須アイテムであるスポット露出計が考えられます。現在市販されているデジタルのスポット露出計は、ファインダーを覗いてスイッチを押せば、EVが表示されます。フィルムの感度は予め露出計にセットしておくので、被写体の明るさは同じでも、感度が変われば当然EVも変わります。
一方、むかしのペンタックス・スポットメーターでは同様にファインダーで数字を読み取りますが、その値はフィルムの感度を切り替えても一定のままです。読み取った数値を本体の計算ダイヤルに移し、そこでフィルムの感度を加味して絞りとシャッターを読み取ることになっています。
フィルムの感度設定によってファインダーの表示が変化するようなカラクリは、当時の技術ではむずかしかったのでしょう。
そのため、ペンタックスのファインダーで読み取った数値を「EV」と混同することがおきてしまったようです。(あくまで推測ですが)
改めてネットで検索してみると、ずいぶんいい加減な解説が目につきます。なかには「EV=TV+AV-ISO値」などという珍説もありました。
デジタルカメラは自動露出が当然なのでEVの知識がなくても支障はないでしょう。しかし銀塩写真の普及を願う身としては、正しい認識を広めたいと思うようになりました。
新聞小説を読む習慣はあまりないのですが、3月28日の朝日新聞に載っていた池澤夏樹の「また会う日まで」をみていて「東京帝大の小穴純君」という記述が目に入りました。
東京大学の駒場博物館で「小穴純とレンズの世界」という展示を見たのがもう10年以上むかしの2009年でした。年譜によると、帝大の講師であった昭和9年、26歳の時に「南洋ローソップ島において日食観察」とあるので、小説に描かれているのはこのときのことなのでしょう。戦前の、しかも南の島のことで、観測の準備も大変だったと想像されます。
で、白黒写真をプリントをする人が必ずと言ってよいほどお世話になるのが「小穴式ピントルーペ」。これ以上のものはもう作られることはないでしょう。調べてみるとすでに製造は打ち切られているようで、残念です。
Photoshopの新しい機能に Super Resolution なるものが出てきました。Camera Rawで編集するときに「強化」※を選択すると解像度が2倍になるという謳い文句です。つまりデジタルカメラの画素数が4倍になる魔法のような機能です。ちなみに一度強化した画像をさらに強化することはできません。
ビネガーシンドロームで寿命がきたネガをデジタル化していますが、ひどく変形してしまうとスキャナーのネガキャリヤに入らなくなります。そこでガラス製のネガキャリヤに挟み、ライトボックス上でデジタル一眼で複写してみました。2600万画素フルサイズ機に50mmマクロレンズをつけて撮影し、Super Resolution を適用すると一億画素を超えます。
コロナが収まってくれるとよいのですが、下げ止まりどころか増加に転じてきたようです。都立の公園では花見の宴会をさせないように、柵で囲っています。
「長屋の花見」のように、お茶けやたくあんで酔ったマネをするのもダメでしょうか?
酒柱がたつとよいのですが...
さる「写真販売展」で、「同じイメージを違うサイズでプリントし販売することはルール違反だ」と聞いたことがどうしても気になり、少しリサーチしてみました。
その結果はつぎのようで、エディションを変えて大きさの違うプリントを販売することは別に問題なさそうです。
その1: 研究会の写真展にも時々来ていただいている写真代理店のはなし
「ルール違反だという話は聞いたことはない。ワンサイズでやっている写真家も、ツーサイズ、スリーサイズでやっている写真家もいる。」
その2: アメリカのファインアートギャラリーの見解
「最近、多くのギャラリーは美術館に購入してもらうことをねらって大きなプリントサイズを望んでいます。この場合は同じサイズが望まれています。しかし、普通のコレクターには大きすぎる場合が多いので、別のエディションで小さなプリントをつくることができます。」
写真を作品として売買することが、もっと普通になるとよいですね。
季節外れの暖かい日曜日、ギャラリーで「写真販売展」と銘打った写真展を観ました。
ギャラリーの壁一面に展示することが普通ですが、額装した展示は数点のみで、作者にお話を聞くと、ポートフォリオのボックスから一枚ずつ取り出して丁寧に説明していただきました。
ゼラチンシルバープリントをフランスでも販売した実績があるということで、写真作品を買って、身近に飾ってもらうことをめざしているそうです。おおいに共感できるおはなしでした。
そのなかで興味深かったのは、海外では?サイズ違いのプリントを値段を変えて売ることはご法度だというおはなしです。自分の数少ないコレクション経験では、アメリカのギャラリーで同じイメージのサイズ違い、値段違いのプリントを見たような記憶があります。最近のトレンドなのでしょうか?